2007年8月11日土曜日

荻窪・2007夏


体調を崩し7月の末から10日ほど入院してしまった。
久しぶりに外を歩くと、普段見慣れたはずの風景が、眼鏡を掛け違えてしまったように映る。
そうした「ブレ」を描き出す技に長けていたのが井伏だ。

彼自身、それを「写生」と呼んだわけだが、
つまり、井伏のキャンバスは真っ白い紙ではなく、原稿用紙だった。

荻窪駅前のバスロータリー、井伏が暮らした清水界隈(日大二高通り)を歩き、
普段とは違って見えるものを捉えようと私も写生を試みたが、
病み上がりのせいか、35度を越す暑さのせいか、あるいはただ単に年齢のせいか、
原稿用紙を思うように絵筆で染めることはできなかった。

2007年7月21日土曜日

山椒庵独考

  岩屋山椒庵を立ち上げると宣誓したところ、昔の同人誌仲間から、ネットのダイアリーに私の関心を引く記事があるという知らせが入った。早速友が教えてくれたアドレスを訪ねてみると、そのダイアリーは、文芸評論家・風丸良彦氏が今から11年前の1996年に雑誌「海燕」に発表した評論「メタフィクションとしての『黒い雨』」と、同じ年に刊行された榊敦子氏の『行為としての小説』に収録された「記述への執念」について記されたものであった。他人が図書館で延滞する書物の一覧を掲載するような類のダイアリーで(はたしてこうした行為はプライバシーの侵害にあたらぬのであろうか)、まともに反応するのも憚れるが、それは、当時その件について触れた雑誌「文藝」の記事を紹介しながら、風丸氏の評論が榊氏の論からの借用であることを伝えていた。言葉をかえれば、11年前に「文藝」に書かれていたものをそのまま蒸し返しただけである。これもネット社会の生活習慣病(コピペ病、リンク病)に因るものであろうか。
  しかし私には確かにそのようなことがあったような覚えがあり、図書を整理したダンボール箱を物置からひっぱり出してみたが、当時の「文藝」はなかった。はて。そもそも「文藝」では、先のダイアリーが伝えるように、「盗作」という言葉を使っていたであろうか? 
  このダイアリーの文脈が依拠すべきものは、現在の執筆者の見解ではなく、当時の公的な資料であることは言うまでもない。「『盗作』なのだろうということになった」とこのダイアリーの執筆者は記しているが、「なった」という断定調が強く響くがそれは執筆者自身によるものであり、少なくとも当時の「文藝」は、たとえ「盗作」という言葉を使っていたにしても、「なのだろう」という推測にとどまっているかのようにうかがわれるが。
  幸い「海燕」も『行為としての小説』もあった。また、さらにその中には当時私がしたためたメモも挟まれていた。走り書きのようなもので、自分でも判読が困難であったが、当時どのようなことを考えていたか、だいたいは思い出すことはできた。せっかく山椒庵を開いた折でもあり、今回これらをあらためて読み返してみた。
  結論から言えば、風丸氏のこの短い評論の狙いは明確である。井伏を少しでも齧ったことがある者なら即座にそれを理解するであろう。つまり、風丸氏はここで、井伏自らが『黒い雨』の小説性を後日的(1986年)に否定し、それを「ドキュメント」としたことを承知の上で、『黒い雨』そのものに立ち返ってそのフィクション性を暴こうとしたのである。論題は「メタフィクション」であるが、「フィクション」に風丸氏の重点が置かれていることは間違いないだろう。字数の制約もあったのであろう、また特に冒頭には無駄としか言いようがない記述もあって、残念ながら、確かな説得力を持つとはおおよそ言いがたいが、「作家・井伏」を捉えようとするこの試みと、純粋な「テクスト論」を展開する榊氏の「記述への執念」とが趣旨を異にするのは誰の目にも明らかで、少なくとも本論そのものにおいては、同列に比べられるべきものではないだろう。
  それでも、もっぱら『黒い雨』からの引用箇所の重複によってこの評論はヤリ玉にあげられたと覚えるが、引用箇所の重複という意味では、私はむしろ榊氏の論文に「?」を抱いた記憶があり、今回当時のメモに沿ってそれをもういちど確認してみた。
  松本鶴雄氏が1988年に著した論集に『井伏鱒二・日常のモティーフ』がある。1992年に増補改訂もされている井伏研究を代表する論集のひとつである。そこに収められた「『黒い雨』の時間論」の中に、松本氏による精緻な「『黒い雨』の内容表」が付されている(P397~P400)。この内容表に記された『黒い雨』における重要事項の数々が、榊氏の「記述への執念」における、『黒い雨』からの引用箇所や本文記述と不思議な符合を見せるのである。以下はその一部であり、私が見た限りでは2者にはこの倍以上の符合がある。

●松本内容表『黒い雨』第2章
妻シゲ子が8月6日の「矢須子日記」の「黒い雨」に濡れた個所は、縁談にさわるので除外することを主張。
●榊「記述の執念」中の『黒い雨』からの引用(P174) 
「矢須子のあの日記、あそこのところ、省略した方が宜しいのぢやないでせうか・・・」

●松本内容表『黒い雨』第3章
「わしのヒストリーじゃ」
●榊「記述の執念」中の『黒い雨』からの引用(P176)
「・・・わしのヒストリーぢや。」

●松本内容表『黒い雨』第4章  
(重松)シゲ子に戦時下の食生活をメモして貰う
●榊「記述の執念」中の『黒い雨』からの引用(P178)
「お前、戦時中の我家の食生活のことを、メモ風に書いてくれないか」

●松本内容表『黒い雨』第10章 
充田タカの死亡記録
●榊「記述の執念」 (P186) 
「故充田タカに関する記録」

●松本内容表『黒い雨』第15章 
この章で二つの時間の一元化
●榊「記述の執念」 (P214) 
「15」の末の注では、語られる時間が、「日記」本文の語られる時間から離れて、語る時間とほぼ一致している。

  さらに、松本氏の本文と榊氏の本文にはそれぞれ以下のような記述も見られる(最後の「執念」については、風丸氏も先の評論で、主人公ではなく作家・井伏のそれとして同じ言葉を用いているが、これは榊氏の論ではなく、松本氏の論を意識したものであろう)。

[矢須子の日記の成り立ちについて]
●松本P405
彼女(矢須子)は原爆病だろうという世間の噂に対し、その不在証明のために往時の本人の日記と主人公の「被爆日記」を清書し、仲人に渡すためのものであった。
●榊P172
彼女に持ち上がった縁談の仲人が被爆の噂を気にして、その年の8月6日に彼女がどこで何をしていたか、正確に申し入れたためである。

[被爆日記について]
●松本P390
主人公は克明に自分の日記や他人の記録をもう一度整理し、記録しなおそうとする。一つ一つ文字を綴ることによっての記録し直し作業は同時に、往時の時間の再展開になる。
●榊P213
矢須子の縁談という偶然の出来事に端を発した清書の作業が、たまたまかかれた内容の起こった季節に進行したため、彼は5年を隔てて同じ暦日に「被爆日記」を仕上げることに特別の意義を見いだしているようだ。

[後日記につい]
●松本P405
現在時に追加して書き加えた主人公の判断を中心にした「後日記」が二箇所もあり、「日記」の惨状の過去から5年後の現在時に小説空間が軟着陸できるような仕掛けが施されている。
●榊P214
「15」末の注では、語られる時間が、「日記」本文の語られる時間から離れて、語る時間とほぼ一致している。

[執念]
●松本P404
主人公の執念が、さまざまな数字合わせの向うに、作者の意図を読み取らせてくれる。
●榊 本論の表題
「記述への執念」

  これらの符合は勿論偶然の所産であるかもしれない。また、榊氏の展開するテクスト論そのものは、井伏研究においては、当時は真新しいものと見なされたのかもしれない。しかしそれは、こうしたところに(たとえ無意識にしても)符合として顕れてしまうように、結果的には、松本氏ら先達が積み上げてきた研究成果の上に積み上げられたものと見るのが妥当であろう。果たして、榊氏は松本論の存在を知らなかったのであろうか。榊氏はブリティッシュ・コロンビア大学で博士号を取得されているが(冒頭のダイアリーの執筆者もまたブリティッシュ・コロンビア大学への留学歴があるようであるが、どうした符合か)、同大学にはテイェン・ファムという日本文学研究家がおり、彼は『黒い雨』を評価し、松本氏もこのファム氏に関心を寄せていたことが、『井伏鱒二・日常のモティーフ』に収録された「創作と実録」に記されている。したがって、榊氏が松本論を知らなかった、という方が私には不自然に思えるのだが、いずれにせよ、榊氏の『行為としての小説』に松本氏の名は言及されていない。あるいは、大学という研究の場で、井伏作品にかかわる研究討議が行われ、その中でさまざまな情報の応酬があったであろうことは想像に難くないが、そこに第三者の見解として紛れていた(引用されていた)ものがいつしか自分の理論の土台となっていった可能性も否定はできないであろう。
  注目箇所の類似性のみで、私は榊氏の論を松本氏の論からの借用などと言うつもりは毛頭ない。それ以前にすでに多くの研究がなされており、ましてや作品解釈において重要な箇所であれば、無論私が知らないものも含め、論考間における原文からの引用の重複も多々生じてこよう。しかし論考が多く提示され、議論が煮詰まり、たとえそれらが表面上は署名を失っているかのように見えても、それらに先んじた論考への目配せを怠って良いというものでもない。榊氏においても、風丸氏においても、また当時風丸氏の評論を榊氏からの借用と捉え、その単純な二項対立図式の内に榊氏のオリジナリティーを担保しようとした人々においても、共通して言えることは、こうした先達が積み上げてきた研究への配慮の欠如であろう。それは同時にあらゆる研究者への戒めでもある。おそらく11年を経た今となっては、当事者たちがそのことに最も自覚的であろうし、どのように自覚されたかは、その後の彼らの活動の中に示されているものと私は信じたい。

2007年7月17日火曜日

今日から書くぞ。

この春会社を定年退職し、家内も「何かしたら」と言い出した。
長年独学で勉強してきた井伏鱒二とその作品について、
今日から書きためていく次第。
備忘録にならねば良いが。

ちなみに小生、東京・荻窪に住み早30年。
もちろん、井伏にあこがれて住み出した町。
会社人間時代は全集読破もままならず。
読書習慣をつけるためにも、ボケ防止にも、と思い、
人生初めてのブログを立ち上げた次第。